寒い日となりましたが、元気な顔が近鉄結崎駅に集まりました。今回も早めに着いて構内でおにぎりなどお昼をすませて、さあ。
本日のメイン、島の山古墳に向かう途中にまず川西文化会館に立ち寄りました。
かつて結崎あたりに荷物を運んでいた舟が展示されています。他にも古墳からの出土品が少しありました。
下足禁止でしたが、靴を脱ぐのが面倒なメンバーは離れたところからの見学となりました。
糸井神社
おかげ踊りの絵馬が中に奉納されています。遠い昔、機織りの渡来系の集団がいて、服部先生のご先祖と関わりがあるとかないとか。
面塚を過ぎ、いよいよ
島の山古墳です。
川西町唐院に所在し、かつてはその墳丘で畑など耕作されていましたが、現在は国が管理しています。
墳丘の長さは200m、埋葬施設は後円部に竪穴式石室、前方部墳頂に粘土槨そして、もう一基が推定されています。
江戸時代から戦前にかけて、副葬品である腕輪型石製品が採集されたり、埋葬施設の石材などが持ち出されたりしていました。
古墳の西に隣接する神社に石室の一部が転用されています。
海外の博物館にもこの古墳からの石製品があったりして、実際にはもっと数多く出土したようです。
また前方部に埋葬されていたのは、手玉が副葬されていたことなどから、ほぼ女性で間違いないとのこと。
主となる埋葬者と後円部の女性。
屯倉に関わる人?
寺川や初瀬川を遡った桜井の地域との関係?
腕輪型石製品も元は貝から作られていました。
どうしてこんなに数多く?
さて島の山古墳から南に下がると小さい丘のような古墳が多く見られます。
人工的に作られたもの、自然の地形を利用したもの。
このあたりはもしかしたら、ヤマトの中心だったかどうかはわかりませんが、強い力を持つ人たちがいたのは確かなようです。
途中には、太子が休憩された時に村人が立てた屏風に因む地名「屏風」、愛馬「黒駒」の手綱を結えた柳(今は代替わり)などが残っています。
また、鎌倉時代の高僧忍性はここ屏風の生まれです。
この地域の中学校。長い名前ですね。
我がサークルのメンバーにこちらの卒業生がいらっしゃいます。
他にもまだまだ見どころいっぱいの歴史の町です。
また来なければなりません。