7月の定例会は梅雨の晴れ間となりました。
JR櫟本駅に集合。
7,8,9月は夏時間ということで10時に集まりました。本数の多くない路線ですので、早めの到着かギリギリか。
10時少し前、参加者全員そろって、さあ出発です。
駅から東へ。
まず高良神社。
現在高良神社が鎮座するこの地では、出土した瓦などから白鳳時代の創建とされる長寺(おさでら)が奈良時代に栄えていて、10世紀前後頃、長寺が廃絶したあと高良神社が祀られたと考えられています。両者の接点は確認されていません。
また、弥生時代の集落や古墳時代の古墳なども存在したようです。


柿本寺あと。
人気のピーナツ店の南側に位置し、東大寺山丘陵の西裾にあたります。
和爾下神社(古墳)のすぐ下に位置し、柿本寺という名前から、柿本人麻呂など柿本氏の氏寺でしょうか。瓦なども散らばり、礎石も残っていますが、詳しいことは不明とのこと。


ここで服部先生が、あらためて 「今日は古墳には寄らず、寺院跡を追う」と宣言。
「承知!」とわれわれ。
今回巡る天理市北部の和爾町、楢町、櫟本町は県下でもまれにみる古代寺院の集中地帯といわれ、古代の行政区画でいうところの添上郡楢中郷にあたるそうです。

続いての寺院は 楢池廃寺。
今は想像するのみですが、向こうの工場?の南側にある弁財天下池の堤の改修工事の際に見つかり、礎石や瓦、磚仏、宝相華文や蓮華文を施した方形の垂木先瓦など出土しているとのことですが、伽藍配置など詳細は不明。
のどかな農村風景の中を次のポイントへ。
向こうには膳部(かしわで)寺があったようです。
東大寺図書館所蔵の「虚空蔵絵図」は鎌倉時代末に製作されたもので、虚空蔵寺(弘仁寺)背後の虚空蔵山の四至、境界をあらわしたもの。それには虚空蔵山南側に「膳部寺」とあり、膳臣氏、膳朝臣氏が建立に関わっているのはまちがいないのかな。もはや「膳」「膳部」「膳朝臣」「膳臣」混同しております。
さて、この膳臣氏は7世紀末に高橋朝臣と改姓して、その本拠地がこの楢中郷と推定されているとのことです。
膳臣といえば、たしか聖徳太子の奥さまのひとりがその一族出身。というと服部先生、そのかたの舌を噛みそうな名前(膳部菩岐岐美郎女・かしわべのほききみのいらつめ)をすらすらと。

写真奥の方に「願興寺」
虚空蔵山の西裾です。
圃場整備に伴う事前調査で、塔基壇、築地塀、掘立柱建物、瓦窯、石組井戸などがみつかり、瓦、磚仏などが出土。
「東大寺要録」によれば別名山口寺ともいい、小野氏が天武天皇の病気平癒のために建立したと伝わります。
写真に収めるのをうっかりしました。
この「弘仁寺」の参道は倒木がおびただしく、両脇の山道を登ることとなりました。
弘仁寺
「算額」が奉納されて有名な寺院でもあります。
江戸時代以降、和算の問題やその解法を絵馬に記して神前、仏前に奉納されていました。県内で確認されている5面のうち3面が奈良市内にあり、そのうち2面がこの弘仁寺のものだそうです。
このブログをまとめるのにあたり、算額について調べたところ、貴重なものと知りました。
残念ながら、しっかり拝見することなく弘仁寺をあとにしました。後悔しています。次回から、もっと予習します。

川の流れでしばしの涼を感じます。
この近くには「椙崎寺(すぎさきでら)」があったと伝わります。


予想以上の気温となりました。暑かったです。
櫟本の町に戻り、北と南に分かれてバスに乗り込み帰路につきました。
今回訪れた楢池廃寺や長寺などからは山村廃寺式軒瓦という、奈良盆地東山麓の限られた地域で使われた特徴的な瓦が出土していて、また願興寺からは山村廃寺式の鬼板が出土しているとのこと。
その山村廃寺の建立氏族と推定されている山村日佐(をさ)氏、山村忌寸(いみき)。楢池廃寺や長寺などは奈良時代に山村郷や楢中郷に暮らしていた日佐系の渡来系氏族の氏寺と考えられているそうです。日佐は通訳の仕事をしており、いろんな分野の事情通だったのでしょう。
この寺院集中の楢中郷。当時はどんな景色だったのか、わたしにとってはミステリーです。