今月は予定を変更して、竹内峠越え周辺の古墳をまわりました。
集合は近鉄大阪線磐城駅。
お天気が心配でしたが、メンバーみんなの日頃の行いでしょうか、回復しましてさあ出発です。
先生の話では今日は古墳巡りだそうで、さてさてどんな古墳が待っているかな?
竹内街道。
この名前を聞くだけで、胸に響くものがあるのはわたしだけでしょうか。
手元にある竹内街道歴史読本によると、交通路としての歴史はとても古く縄文時代から人々に利用されていたと考えられるそうです。
いったい、これまでどれだけの人がこの道を歩いたのでしょう?市井の人から歴史上の人物までこの道を通りました。
ここから竹内街道が始まる。
長尾神社。
竹内街道の出発・終着点。
横大路(初瀬・伊勢街道)、下市街道、長尾街道との交差点にあり、にぎやかなちまたに位置しています。
鳥居の両側にカエル。
向かって左手は親子。
道標にもよく出会いました。読めるかな?
塚畑古墳。
戦中・戦後の食糧増産の要求により、畑地として利用されたため、墳丘の上部は大きく削平されていますが、墳丘の周囲はカーブしている様子がみてとれます。
今は畑地となっていますが、このあたりも周濠だった?
民家の屋根から頭を出している二上山。
土地の人たちから「おいまさん」とよばれる親孝行の女性、伊麻。松尾芭蕉は門人の苗村千里を通じて伊麻当人に会ったと伝わっています。
伊麻の説話に因むウナギのモチーフの腰掛け。
近くの小学校の校章はこの水瓶だとか。
メンバー軽やかに進んでますよ。
芝塚1号墳
朝までの雨で足元がぬれていて、みんなじゅうぶん気をつけていましたが、それでも転倒されてしまいました。大したことなくてひと安心。
墳丘に上り先生の説明を聞きます。
向こうに2号墳。
2号墳の横穴式石室には基礎石を敷き詰めた玄室があり、凝灰岩製の組合せ式家形石棺と木棺が追葬されていて、多くの副葬品が納められていました。
その石棺は今は1号墳の北側に保存され見学できます。
こちらも雨のあとは特に注意が必要です。
中央左寄りにある屋根の下に石棺。
正面に見える住宅地に兵家古墳群が所在 と先生から聞いたような?
今日は近くまでは行きませんが、5世紀中葉から6世紀前半までお墓が作られ、いったん中断してまた7、8世紀に新たに古墳が築かれたとあります。古い古墳には豊富な副葬品が伴っていたとのことです。
この先に夫婦塚古墳。
資料によると小型の方墳もしくは円墳で東西に並んで南に開口する2基の横穴式石室が構築されているとのこと。
興味深いですが、見学はまた今度。
中央右に見えるこんもりとした緑。
塚畑古墳でしたか?
あれ?鍋塚古墳?
竹内街道を少し歩きました。
車の通りを避けて遊歩道を歩きます。
途中獣よけのフェンスの扉を開けて入りました。
あとはまた閉めておきますよ。
吉野建ての建物。
由緒ありげなすがた。
竹内街道歴史読本によると、築300年の氷室などをもつ格式高い旅籠であったようです。
竹内街道を歩き、次のポイントへ。
三ツ塚古墳群
竹内街道から竹内峠越えと平石峠越えの道に分かれる分岐点にこの古墳群は位置します。
三ツ塚古墳群ではさまざまな単独埋葬施設が築かれていて、まるで住宅展示場とたとえたメンバーもいました。
階段状になっていて比較的のぼりやすい。
スリムなフォルムの石棺。
当時の人の体型は今より背が低くて、細かったらしい。
現代の私たちは少しつらいかな。服部先生も身長からして、無理ですね。
足元の小石で囲った部分はお骨などが置かれていた?
こじんまりした土壙墓や木棺墓、横穴式石室もありました。
石棺も置かれています。
すぐそばを南阪奈道路が走っています。
出土した金銅製金具付き漆塗り革袋。
国内には例がなく、中国唐の役人で外国籍の者が身につけた品物である可能性が高いとか。
唐に渡り位階を受け、役人として活躍した人物がこの地に葬られていたのでしょうか。
復元した写真を見ると、現代でも人気がありそう。
細い道を通り抜けると…
竹内街道。
ここでいったん解散です。
おつかれさまでした。
余力のあるメンバーで竹内古墳群へ。
道路の向こうに一楽古墳がありました。今はありません。5世紀後半の築造で、四獣形鏡、須恵器杯、円筒埴輪などが出土。
竹内古墳群とやはり関係はありと推察できるようです。
さてのぼります。
いたるところに古墳。
まさに古墳巡り。
おりてくると、あれ?當麻寺。
相撲ファンのわたしとしては、テッポウをやってみたかった。
ご存知中将餅。
そばに竹内街道歴史読本。
お世話になりました。