【活動日誌】上牧の遺跡

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秋の気配を朝晩に感じるようになりました。しかしまだまだ暑いです。水分をしっかり摂って無理せず9月例会です。

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近鉄五位堂駅に集合。

バスに乗ります。

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馬見北6丁目で下車。

さてさて目的地はどこかな?

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右手はもう古墳では?

うっそうとした森。公園になってます。

f:id:narakofu:20220908091841j:imageトイレもあります。

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牧野古墳見学の予定時間まで、服部先生の説明を聞きます。

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今回は先生に手配していただき、古墳内部を見学できることとなりました。

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しかし、このあたりおびただしい数の蚊。先生の助言で虫除けスプレーは持参してましたが、かゆみ止めパッチも必要でした。

 

さていよいよ牧野古墳です。

f:id:narakofu:20220908092118j:image階段…

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f:id:narakofu:20220908092139j:imageひぃひぃ。

石の階段をのぼり、入り口が見えてきました。

f:id:narakofu:20220908092153j:image予定通りとびらは開いています。

f:id:narakofu:20220908092228j:imageさあ中へ。

 

こちらは3段築成の円墳です。

このあたり(馬見丘陵一帯)には石材となる石がほとんどなく、横穴式石室を持つ後期古墳はほとんど見られないということです。

こうした中、遠くから巨石を運び県内最大級の横穴式石室を造った牧野古墳。よほどの力を持った人物のお墓なのでしょう。

f:id:narakofu:20220908092253j:image天井は高いです。

f:id:narakofu:20220908092306j:imageライトは必需品。

f:id:narakofu:20220908092345j:image先生によると、石室の規格や構造は以前訪れた桜井赤坂天王山古墳と類似していて、同じ工人集団の仕事と考えられているとのこと。

赤坂天王山は入り口がずいぶん狭く、閉塞感が充分で全く光がありませんでした。

f:id:narakofu:20220908092412j:imageこちらは開口部が比較的大きく開いているので、複数のライトで内部がよく見えました。

 

f:id:narakofu:20220908092552j:image奥壁は3段、側壁は4段積み。

奥壁近くに東西に刳抜式家形石棺が置かれています。その前に組合せ式家形石棺が置かれていたそうです。

f:id:narakofu:20220908092507j:image足元にはコロコロした石が敷かれています。古墳ができた時から置かれている石。もちろん石室の石も石棺も当時のものですが、床に敷かれている小石は普段でもよく見かける石だけになんとなく感慨深いものです。

 

f:id:narakofu:20220908092645j:image石室は古くから開口していたそうですが、玄室内を中心に玉類、金環など装飾品や銀装太刀、矛など武器、馬具など多数の副葬品が出土しているとのこと。

石室、石棺の形態や出土遺物から古墳の築造時期は6世紀末とみられていて、敏達天皇の第一皇子で舒明天皇の父である、押坂彦人大兄皇子の成相墓では?と推察されていますが、さて。

 

f:id:narakofu:20220908092630j:image道路沿いの歩道まで降りてきました。

f:id:narakofu:20220908093117j:imageもと来た方向へ戻り、公園に沿って歩くと長持形石棺底石が移設されていました。馬見丘陵公園の東にある、文代山(ぶんじろやま)古墳のものです。

f:id:narakofu:20220908093313j:imageなにゆえ、ここに?

 

f:id:narakofu:20220908093151j:imageみんなが集まっているこの場所。

奥に見えるフェンスの向こうが佐味田宝塚古墳です。

この場所は、上牧町、河合町、広陵町の三町が接したところで、事情から古墳に入るにはぐるりとまわる必要があります。今回は暑さなど考慮して、見学は断念しました。

この古墳は4世紀後半から末のもので鰭付円筒埴輪列や形象埴輪など出土していますが、中でも「家屋文鏡」と呼ばれる鏡は鏡背に4棟の建物があしらわれており、古墳時代の建築を示す資料として注目されています。ほかにもいわゆる「卑弥呼の鏡」も11面以上出土しています。

その鏡の評価で築造年代は古く考えられていましたが、その後の発掘調査で出土した埴輪により、4世紀の後半から末葉と考えられています。

 

f:id:narakofu:20220908093408j:imageどんどん歩きます。

f:id:narakofu:20220908093429j:imageこの辺りには何か重要な知見が…

f:id:narakofu:20220908094529j:image隠れているというお話が…

f:id:narakofu:20220908094548j:imageあったはずなんですが…

f:id:narakofu:20220908094617j:image何だったかしら…

f:id:narakofu:20220908094632j:image大和平野…

f:id:narakofu:20220908094643j:imageまた今度、もう一度先生に訊いてみます。

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観音山銅鐸出土地

f:id:narakofu:20220908094504j:image観音山銅鐸出土地です。

ここから出土した銅鐸は現在は静岡市登呂博物館に展示されているとのこと。どうして?という感じですが。

明治時代、銅鐸の移動があり、その際その箱書きに上牧村字観音山で見つかった旨が記載されていたという。

現在どこにあるにせよ、上牧銅鐸は葛城北部地域では唯一の出土銅鐸であり、当時の弥生集落の動態と関連する重要な資料となるものにはまちがいない。

 

f:id:narakofu:20220908093651j:image西の方に二上山、岩橋山、葛城山が見えています。

f:id:narakofu:20220908093719j:image岩橋山と葛城山のあいだには竹内街道が通ります。

f:id:narakofu:20220908093755j:image今はのどかな風景が広がり、また新しい街が開かれている。

f:id:narakofu:20220908093813j:image銅鐸や古墳の時代にはどんな景色だったのでしょう。

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今日もよく歩きました。

今回のテーマ?は「このあたりは奈良だがいわゆるヤマトではない」

どういうこと⁉️